かじまるの人生日記

いつも幸福な人間が、その人格を考察したり仲間を探すためのブログ

本当の愛とはなにか。エーリッヒ・フロム「愛するということ」

アドラーと切り離すことのできない、フロムの愛について。

現在、愛という言葉には二つの定義がある。
ドラマや映画など、世間一般的に使われる「恋」との差がなくなった「愛」
そして、今回のテーマである親が子に対して持つような見返りを求めない「愛」

なぜ、「真実の愛」だと思って結婚したはずなのに、
結婚して数年後、愛し合えているとは言えない夫婦が多くいるのか。

それは、前者の「愛」、つまり「恋」しか行えておらず、
本当の「愛」を行えていないからである。

この本との出会い

結婚に関する本をいくつか出版されている著者の方と話す機会があった。
そこで、「嫌われる勇気」はすごい本だと思っていることを話した時に、この本を勧められた。
読んでみると、第二のバイブルとなるほどの衝撃を受けた。

愛するということ

「愛される」ではなく「愛する」ための本だということ

ちまたにある恋愛本は愛されるためのものばかりである。
どうしたら愛されるかのスキル、どういう人が自分を幸せにしてくれるかの知識など。
これは恋愛においては大事なことだろう。

恋愛は人間的に未熟であっても、本能的な部分だけで行うことができる。
相手への不満が募れば別れればいいし、ケンカしても取り繕って仲直りできる。
いくらワガママを通しても、相手が自分に何らかの価値を感じていれば、お互い幸せだと感じながら付き合い続けることも可能だ。

だが、結婚となると全く別だ。
2人で何十年も夫婦の課題、家族の課題に取り組む必要がある。
愛されるスキルしか持たない人間が、自分と家族を幸せにすることはできないだろう。

また、生物的に恋愛感情は4年ほどしか継続しないという変えがたい事実もあるが、
恋愛状態においてこの知識を踏まえて結婚を考えられる客観性を持つのは難しい。

では愛するとはどんなこと?

相手を幸せにしたいと思うこと。
それは、相手を成長させることでもある。
人間が本当に幸せになるには成長が必要だ。それを促すのも、大事な愛の行動である。

相手を幸せにしたいと思うのは当たり前のことだと思われるかもしれない。
だけど、これには、「自分がどう思われようと」という条件がある。
自分が認められたいから、好かれたいから相手に何かをしてあげるのは愛ではない。
より難しいのは、相手に良くなってもらうために、自分が嫌われてでも厳しさを持つことができるか、ということだ。

本当に愛するレベルにある関係性なら、お互いがそうやって高め合い、関係性も深くなっていくだろう。

そして、いくら幸せにするという意志を持てた相手でも裏切られることはある。
人は弱さゆえに裏切ることがあるがそれはしょうがないことだ。
だけどそこにリスクを感じてはいけない。
人間は弱い、それを理解し、許容できる寛容さまでも、
愛することができる人間というのは持つ必要がある。

ただし、他人を利用しようとする人は、愛の対象にはならない。
結婚相手をステータスのごとく考えたり、恋愛の上下関係を元にわがままを通したり。
結婚するときには、愛する対象になり得るかどうかを見抜く必要がある。

運命的な愛という間違い

愛は、運命で行うものではなく、意志や知性で行うものだ。
若い女性が運命やロマンティックに憧れるのは、自分を特別な存在として承認して欲しいことの表れである。
運命的な愛というのは、未熟な恋でしかない。

人格の成熟が必要だということ

与えられるではなく、与える段階に達していないと、愛することはできない。
アドラー心理学と同じく勇気、強さ、知性が必要である。
まずは、依存心やナルシシズム、他人を利用したり何でも溜め込もうとする弱さを克服するところから始まり、
その上で、強くあろうと生涯成長を志すことだ。

結婚生活とは気を遣いながら送るものではない

夫婦とは気遣いながらやっていくものという常識があるが、
そんな浅い関係性は脆くても仕方がないことだろう。
フロムはこうした関係を、生涯他人のままであり、中心と中心の関係にはならない、と表現している。
成熟した人間同士ならば、ありのままの自分として向き合え、それを認めあうことができる。

自分の子供に対する愛が一番易く、他人になるほど難しい

子育ての大変さという意味ではない。
愛するという意志を持てるかどうか。
自分の子供であれば大抵のことは許せる。
反抗期でどんなに嫌われようと、自分は子供を裏切らないことが愛だ。
だが、親、兄弟、恋人、友人と、他人になるにつれ、それは難しくなっていく。

資本主義と愛

資本主義とは、基本的には個人の利益を追求する社会である。
この社会にあって、利他を必要とする愛に気づくのは難しい。

愛することの難しさ

多くの人が弱さを持っている。

  • 自分に何をしてくれるかで相手を見る人
  • 見捨てられることの恐怖ゆえに他者に害をなす人
  • 他者に認められなくては自己の存在価値を認めることができない人
  • プライドが傷つけられた時にその補填として未熟な行動をとる人

そして、他人は自分のために存在すると信じ、
傷つけることも厭わないような、元々愛することができない人もいる。

実は、結婚するくらいの年齢でこれらの弱さを克服し、与える段階に達している人は少ない。
だがそれで幸せな結婚ができないというわけではもちろんなく、
自分の弱さを理解できる知性がありさえすれば、
その人はその後の人生で弱さを克服していくだろうと思う。

愛することができる世界にしたい

はてブでも結婚のメリット・デメリットが語られたり、
良くあるための具体的な対策案をよく見るが、
もっと俯瞰的に理想の世界を考えてみたい。

今の世の中は、
他者との比較や、メディアなどからの表面的な恋愛の常識の形成、
そういったものゆえに本当の愛が見えづらくなっている。
自分で考え、答えを見つけていける者だけが、理解し、
愛についての経験、成長を経た者だけが、行うことができる。

そういった人間を増やすにはやはり教育だ。
まずは流行からで良い。
本当の愛についての価値が知れ渡り、
親になる人間達がそれを正しいものだと理解すれば、
その子供にはそれを教え、世代が変わるごとに愛することができる人間は増えるだろう。

長い時間がかかることだが、そうせざるを得ないこともわかっている。
大学の授業でこの本を読んだ人に聞くと、
当時は難しくてわからなかったということだった。
旧訳の方だったのだろうが、当人の愛の経験が乏しいと理解すらできないということだ。
本を読んで、その価値を理解したとしても、行動できるまでに数年はかかるだろう。

この部分にビビッときた

フロムは、愛を与えることは自分の生命を与えることだと述べています。ここで言っている生命とは「命」のことではなく、「自分の中に息づいているもの」のことです。相手に対して、「自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分の中に息づいているもののあらゆる表現を与える」ことが愛だとフロムは言うのです。そして、「与えることによって、かならず他人の中に何かが生まれ、その生まれたものは自分に跳ね返ってくる。ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受け取ることになるのです。

自分はまさにこういう意識で他者に接してきて、理由はわからないがすごく重要だと思っていたことだった。
これが確かに愛なのだとわかるけど、他の人の例も聞いてみたい。

本は新訳の方で

本は下にリンクした新訳のものと、
NHKの「100分de名著」の二冊とも読むことをオススメする。

アドラー心理学の実践者が「嫌われる勇気」の本について書くこと

この本を読んだ時、これまでの人生で、試行錯誤しながら課題を乗り越え得たものが、
そのままこの心理学のエッセンスになっていると感じた。

この本についてたくさんの書評があるが、
この心理学を既に実践している者からの評価はあまりないようなので、
自分の経験を踏まえて書くことは有意義な情報になるかと思う。

前提として自分が育った環境について

家族からは過度な干渉はなく充分な愛情を受けて育ち、
学生時代から社会人になっても、基本的に周りに存在を認められ尊重を受けてきた。
そのためか、誰かに・何かに依存することはなく、嫌われることすら厭わず、
無理にアイデンティティを求めず、お金や地位にも興味なく、
自分だけ良くあればいいではなく、みんなが幸せであるようにと考える人間になっていた。

発達心理学では人生の時期によって満たすべき課題、欲求が定義されるが、
その欲求が常に充分に満たされてきたのだと認識している。

アドラー心理学のエッセンスと自分の経験

嫌われること

実はこの本に出会うちょうど一年前、当時の交友関係に関してある葛藤があり、
そのときに『嫌われてもいいんだ』と明確な意識があったことを覚えている。

嫌われた時にはもちろん普通にショックを受ける。
だが、それを乗り越えられる自信や強さがかなり大きいと思われ、
嫌われるかもしれないというリスクが行動の制限になることはない。

シニカルに「自分は嫌われてもいい」と言う人がいるが、
諦めだったり、潜在的に承認されることを渇望している場合は、正反対のものなので注意が必要。

自由

自由とは、ありのままの自分で、縛られることなく生きること。

(エピソード)
最初に自由を実感したのは四国お遍路をしていたとき。
かなり厳しい体験だったので、常識や体裁などを気にする余裕がなく、山や田舎道で立ちションをしていたら
急に「これが自由か」と解き放たれたような明確な意識を得た。
アホみたいな体験だけど、真面目な話。
もちろん、アドラーの言う対人関係における自由が主な経験となるが、本質的には同じ。

こういう経験をいくつもしていると、カントの自由も、アドラーの自由も、心から理解できると思う。
常識や文化に沿わない人は嫌われる。バカにされる。こういう恐怖に打ち勝てないと、
いかに常識に縛られているかも気づけず、自分の本当の生き方に気づくこともできない。

社会的に成功して、裕福で、自由にやりたいことができるという幸せがある。
それは金銭的、社会的に自由であるという意味で、ここでの自由とは全く違う。
結局は、人にどう見られるかの意識から解放されているか、
自分が本当に何をして生きていきたいかに気づき、行っているかどうかが大事だ。

自己受容

自分の能力の低さ、コンプレックスも含めて、ありのままを受け入れること。

(エピソード)
仕事で、認められたいではなく、心から貢献したいと思ってやっていたが、自分の能力の低さゆえにうまくいかない時期が続いた。
体を壊すくらいに既に努力はしていたし、原因は、会社と自分の能力のミスマッチとしか考えられなかったのでどうしようもなかった。
そんなときにこの本に出会って『課題の分離』を知ったことで、
『自分は出来る限りの努力をしていればそれでいい。あとはクビにするなど会社側が決めること、会社側の課題だ』
と思うことができた。
そしてそこで、自分のマイナス面もすべてを受け入れた感覚があり、それが自己受容なのだと気づいた。

共同体感覚

他者を仲間とみなし競争ではなく協調する、これを居場所とし、幸福を得ることができる感覚。

(エピソード)
育った環境ゆえ、他者は良いものだという認識があり、
陰口や批判などの裏切りがあっても、まずはそうするに至った理由を汲み取ろうとするし、
それに耐えるうるという自信もあるので、対人関係に入っていくことに恐怖することがない。
そしてすぐに相手に尊敬や信頼を持つことができる。(信頼と信用とは別。信用して騙されるのは知性の問題である)
競争相手ではなく仲間だと思えるから、素直に祝福できるし、幸福にしたいと思う。
そういう感覚と行動によって、日常的に幸福を得ることができている。

ついでに性善説性悪説について。
人間は元々は善くありたいと思うものなので、性善説が正しいと考える。
ただ、生きていく中で弱い自分を守るために、人に害をなさざるを得ないというだけだ。
サイコパスは例外とする。

今ここを生きる

何者かになる必要はない。ただ今を一生懸命生きていれば良い。

(エピソード)
若いときは、その時の自分に満足できず、理想の自分になれないことに焦りや、ネガティブな気持ちがあった。
承認欲求が小さいことと、日々努力できるようになったこと、一生懸命に生きて後悔なく充実した毎日を送れるようになったことで、自分のありのままで満足できるようになった。
死生観にも影響していて、死ぬ時に多くの人に悲しんでもらいたいとか、立派な墓や世の中に爪痕を残したいというような、自分がいなくなった未来のことなど全く関心がない。

誤解されやすい/そのまま受け取ってない箇所

「嫌われる勇気」というタイトル

この心理学の全体を表しておらず物足りなさを感じるが、一番の本質であると思う。
各エッセンスを実践するに根幹となる必要条件が、嫌われる勇気だということ。
そして、これが一番難しいということ。

承認欲求の否定

マズロー欲求段階説にある通り、人間である限り、自己実現を達成したとしても、少なからず承認欲求はあるはず。
ない人がいたらかなり興味があるのでぜひ話してみたい。
この心理学で言わんとしていることは、『承認欲求を動機とした行動』を否定するということで、
その欲求を持つこと自体を否定しているわけではないと解釈している。
自分の場合だと、承認欲求を動機として何かを決定したり行動することは一切ないが、
例えば何か達成したときなど、褒められれば素直に喜んでいる。これは承認欲求ゆえのものだと思っている。

トラウマの否定

岸見さんの他の本によると、アドラーは軍医をしていたので、PTSDレベルのトラウマの存在を知らなかったはずはないとあった。
ではこの意味とは、トラウマを『行動できないことの理由にすること』を否定しているということらしい。
脳でいうと、認知を行うことと、トラウマ反応は明らかに違うものである。
認知について言っているのなら納得できる。

褒めてはいけない

これは納得できていない。
褒められたとして、そこに相手との上下関係を意識するだろうか?
自分の場合は素直に喜ぶだけなので理解できず。

「嫌われる勇気」という本

出版から3年経った今でも、大型書店のビジネスコーナーではランキングに入っているし、Amazonのレビューも類を見ないほど高いものになっているので嬉しい限りである。

これまでも「7つの習慣」など人生に影響しそうな本は読むようにしてきた。
でも「嫌われる勇気」という本は、自己啓発や、ライフハックという枠を超え、バイブルに出会ったくらいの衝撃を受けた。
他のアドラー関係の本を数冊読んでみたが、やはり「嫌われる勇気」がダントツでわかりやすいし深い。
あとに出た「幸せになる勇気」もこの本ほどではないが、とても大事な本。

最後に

この本を実践するということは、現状では世間とは大きく乖離するということだ。それほど常識とは異なっている。
だけど、人間としての普遍的な成長の要素でもあると考えている。

自分も、最初から求めてこうなったわけではなく、苦しみや葛藤を乗り越え学んだ後に、自然に変化したものだ。
現在では、何が起こればこの安定して高い幸福感が阻害されるのか、ということに興味すらある。

正しくはない宗教や自己啓発セミナーなどは、
ただ祈れば、これを買えば、これを行えばと、そういう手軽な手段で幸福を得れると説く。
だが、弱さや未熟さを克服せずに得れるものは刹那的、依存的な幸福でしかない。自分の内面の変化すら起こらない。

実践するのが本当に難しい心理学だと思う。
実践できずとも、これを知り、正しい方向に向かうだけで有意義な人生になるはずだ。
確実に成長はする。
だが最初は常識の枠を外れるというだけでも相当に大変なことだろう。


嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

心理学的なユートピア、ユーサイキアの世界

怪しいタイトルになってしまった。

マズローが提唱した「ユーサイキア

すべての人が心理学的に健康であるような心理学的なユートピアの状態、これをユーサイキアと呼ぶ。自己実現が達成されるような理想社会のこと。要するに、世の中が自己実現者ばかりで、その際に実現するであろう理想の文化や社会。

自分も同じようなことを考えていたので、これを知って興奮した。

僕が考えた最高の世界

前提

自己実現は自己受容を経ることなしに達成できない。
マズローの理論でも明示してあるし、経験からしてそれが当然だという認識がある。
この世界では下記2種類の人間がいるものとする
・自己受容を経た自己実現
・自己受容者

すべての人が少なくとも自己受容をしている

ありのままの自分を受け入れる強さを持っているということであり、弱さや未熟さゆえに他者に害をなすこともないということ。

競争は必要ない。戦争もない。軍事予算とかいらない。
過剰サービスなどなくても今あるもので満足できる。
見栄を張る必要ない。特別でなくてもいい。
対人関係で気を使う必要がなく、すぐに信頼を築け、共同体感覚が得れる。

人間が自然体のままで幸せに生きていくことができる。

文明の発展は、そのコトに自己実現を見出した自己実現者が行う

私利私欲で動く人はおらず、自己実現者のモチベーションに競争原理は必要ない。
会社や国を超えて一つのことに科学者や技術者が取り組む。
医療や科学やIT、すべての分野で、発展の速度は大幅にアップする。
この人たちにとって高待遇は必要ないが、一応、それ以外の人たちよりは裕福な生活ができることにする。

現在の常識では、
発展にはマイナスの動機が必要だと思われている。
女にもてたい、周りより幸せになりたい、金持ちになりたい、地位を得たいという承認欲求は、大きな力を発揮する。
だけど、その承認欲求を実現したあと、その人は幸せでい続けられるのだろうか?
実現する過程で他者を陥れることはないだろうか?

最初の目的は達成したのに、なぜか幸福が続かないから、人はさらに承認欲求を追い続ける。
自分でその状態に気づくことは難しい。
そして結局は、こういったマイナスの動機は発展を大きく阻害する。

自己受容者たちはベーシックインカム的なもので生活する

共産主義で良い。競争のないこの世界では経済すら必要ないかもしれない。
食料供給や単純労働は、上記の理由で大きく発展したロボットが行う。
もちろん、幸福に生きるにはダラけて遊び呆けるより、働いたほうがいい。
働きたい人は、福祉でも何でもいいけど、好きに仕事を見つけてやればいい。

娯楽はもちろんある

自己実現者でも自己受容者でもいいが、提供したいと思った娯楽は自由に作ればいい。
基本的な娯楽は国営でもいい。
アーティストもお金を儲ける必要がないので、自己表現、承認欲求でもいいが、自由に人々を楽しませてくれるだろう。

社会的弱者が守られる

高齢者、障害者、そして子供などは他者の助けを必要とする。
助けとは物理的なものだけでなく、精神的な、コミュニケーションの方が重要となる。
自己受容まで達成できる人間なら、自ずと弱者を助けたいという欲求を持てるので、無理なく助け合える社会が実現できる。
すべての人間が幸福に生きることができる社会になる。

その実現性は

一番の難題はすべての人が自己受容するということ。
自分のマイナス面を受け入れて前向きに生きていける、そんな強さを持てる人間は一部だろう。
全世界的に基礎の教育としてアドラー心理学を導入しても、それを正しく教えられる教師、そして親ができるまでに数十年。
そもそも、家庭と学校で教えたからと言って、人生の様々な課題を経験することなく達成できるのかは難しい。
自己実現の方は、能力のある人間が自己受容をしていれば自ずと達成されるはず。

おわりに

これはいつも思考の遊びで終わってしまっている。
とはいえ、著名な心理学者も同じことを考えたということで、
この価値が評価される可能性はあると思えた。

理想だとしても、それが正しいものであることが必要だ。


マズロー心理学入門―人間性心理学の源流を求めて

マズロー心理学入門―人間性心理学の源流を求めて

このブログの目的

前提

まずブログ主は下記のような自己認識を持つということが前提となる。

(この前提は誤りである可能性はあるので、気づき次第変えていく)

なぜ心理学を用いて説明するのかというと、
人の本質は、内向的や外向的、性格が良い、気遣いができるなど表層のみを知ったところで本当の理解はできない。
表出した特徴のその内側で何を考えているか、何がしたいのか、窮地に陥ったときに出る言動など、そういったものを深く知る必要がある。
その内面を適切に表わしてくれるのが上の心理学だ。

この心理学については、別記事で詳しく書くが、
とりあえずここでは適切に伝えることを意図して心理学を用いている。

ブログを書く意義

上記のような性質を持つ人間が書くものを見たことがない。
その片鱗が伺えるような著作物はもちろんあるが、著者がそうであるかというのはやはり奥まで探ってみないとわからないものである。
そして、本当に幸福な人間の声は小さい。
まず承認欲求を満たすための表現をする必要がないし、
わざわざ叩かれるリスクを犯してまで情報を共有する選択をしないのだろう。

守るものがないからこそ書けることがある。
有名人でも社会的な地位があるわけでもないので、何でも書ける。

こういう人間が書くこと、それ自体が意義となると考えている。

目的

社会に有用な情報を提供したい

人とはどうあるべきか、結婚、育児など、人生に有用だと思う記事を書いていきたい。
何も知らなかった過去の自分が見て興奮するような記事を想像して書きたい。

情報を得たい

自分の知識は浅いので、政治、社会、教育のことなど詳しい人と知り合いたい。
本で学べる基本的なことではなく、実情を知り、全体を知り、俯瞰的にみれるレベルの人。
あと、結婚後10年ほど経っても幸せな結婚生活、子育てをしている人の話はぜひ聞きたい。

仲間を探したい

マズローの言う自己実現者であろう人物は、テレビのドキュメンタリーやビジネス系番組でチラホラ見つけることができた。
「なぜそれを行うか」という問いに皆、同じような答えをあげる。
成功者というより苦労人のイメージだけど、成熟しているし、本当に幸福なんだなと思う。
リアルでは出会えてないけど、ネットならたくさん見つかるはず。色んな話をしてみたい。

自分の考えがどう受け止められるのか

読んだ人がどう反応するのか、叩かれるのか、楽しみがある。
哲学的な話をするとリアルでは大抵拒絶されている。
客観的、論理的に考え学習もした上で書いているつもりだが、これこそが正しいとは全く思っていない。
より良い価値との出会い、根本的な間違いに気付かされ、自分の人格をひっくり返すような事に出会えたら素晴らしい。

現在の自分を子孫に残したい

普遍的な幸福、成長過程は、数十年後でも変わらないはずなので参考にしてもらったら嬉しい。
変わった人間であったということがわかるだけでも面白いはず。

まずは

このブログが多くの人に読まれないことには何の目的も叶わない。
今後、一般的に検索されそうなタイトルの記事も書く予定があるので、それに期待。

あまり理解されない本当に幸福な人間

これまで幸福に生きてきた。
ここ数年の間、他の人は自分ほど幸福を得てはいないのだということに気づいた。
そこで、人間の幸福というものに興味を持ち、
心理学、哲学、脳科学、精神医学と学習の範囲を広げることになり、
人間としての普遍的な幸福、幸福と成長とのつがなり、普遍的な成長の過程というものがあるのではと思い至った。

自分がなぜ幸福であるか

嫉妬をしない

同僚、同級生の成功や幸せを知った時に、喜びや憧れはあっても、嫉妬をすることはない。
競争も、それ自体は楽しくて好きだが、自分が勝ちたいから競争するのではないし、負けてもただ相手を尊敬し、自分の成長への動機とするなど、マイナスに陥ることがない。

誰かを失う、何かを失うことの恐怖がない

人にも物にも地位にも依存することがない。
それを失う恐怖ゆえに日常的に思い悩んだり、やるべきことをやれないということがない。
後悔もなく充実した人生であるためか、自分の死についても同様。

大事なものに気づける

恋愛の別れや近しい人の死、日常の素晴らしさなど、失ってからでないとわからないことがあることを知っているので、今あること(存在・所有)の大事さに気づくことができる。
また、この幸福はこれまで出会った人たちのおかげであることを理解しているため、多くの人に感謝をしている。

自己肯定感が充分にあり自己受容ができている

色んな経験、成功体験を積んできた。失敗の体験の方が多いけれど。
自分が否定されても、窮地に陥ろうとも、それを素直に受け入れ、前を向いて進むことができる。

ちなみに、自信と自己肯定感は異なるものだが、どちらも過ぎるのは良くない。
自信はその根拠もなく自信過剰になってしまうと、謙虚さがなくなり、自分を客観的に見れず、成長を止めてしまうし、
自己肯定感が過ぎれば、自分に否がある場合でもそれを認めず、ありのままの自分で良いのだ、と正すべきを見えなくしてしまう。
ほどほどというか、どちらも充分にあっていいが、それを制御できる人格が必要である。

自由である

自由奔放という意味ではない。
やると決めたことを、それが人にどう見られようと、常識や文化に外れることだとしても行うことができる。
また、素直さにもつながっている。大人になっても素直さを持ち続けている人間というのは、無防備に晒した自分を否定される恐怖を乗り越えた人間だということだ。

内発的動機づけによる成長欲求を持っている。好奇心がある。努力ができる

ただ自分を向上させたい、より良い人間になりたいという動機。
狭く偏らず、広い世界に向けての好奇心。
そしてそれを実現するための努力ができる。地道な積み重ね自体を楽しめる。

共同体感覚を持っている(アドラー心理学

社会や周りの人間を幸福にしたいという欲求がある。自分ができる範囲で。
嫌われること、疎外されることへの恐怖はなく、ただ自分から好意を持てる。
自分勝手な人、批判ばかりで他者の評価を下げる人、それらは未熟さや弱さが動機となっていることを知っているので、否定することもない。(下に見てるのではなく、それはそうせざるを得ないのだということを理解している)

少しで満足できる。多くを求めない

人が身の丈に合わないお金を使い方をしたり贅沢をするのは、承認欲求が1番の理由だろう。その次は染み付いた生活水準を落とすことができないことだろうか。
まず、承認欲求が満たされた者はそれによる贅沢をする必要がない。
そして生活水準を落としても幸福であり続けることは可能だという仮説を持っているが、今後のエントリで詳しく説明してみる。

一般的な幸福とは

上に書いたことに納得できない人もいると思う。
キレイ事、決して最上の幸福ではないとか、安定はしているが些細な幸福だろう、という感じだろうか。

書いてる途中、ふと「幸福な人間」みたいなキーワードで検索をしてみた。

私ほど幸せな人はいない! : 家族・友人・人間関係 : 発言小町 : 大手小町
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2013/0320/581080.htm

このトピ主の状況は誰にとっても幸福だろう。しかもかなり得難いほどの。
一般的な幸福のカタチと言える、裕福さ、素晴らしい家族、他者からの評価、容姿端麗など。
先に挙げた幸福と、言っていることが全く異なっているのが面白い。

幸福の違い

これはどっちが良いと比較するものではない。
論理的に比較したとしても、納得できるものにはならない。

ではどういうことか。

愛が満たされていない、
承認欲求が満たされていない、
自己肯定感が低い、
そういった人間の未熟な部分を克服していったとき、
幸福の価値観とは自然に移行していくものだと考える。
その時、小町の方の外面的な幸福ではなく、内面的な幸福について価値を求めるようになる。
これはそうなってみないと理解できないものだと考えている。

幸福の価値観とは、人間の成長レベルによって変わっていくものだということ。

普遍的な幸福を説明できる心理学など

自分が大きく変わっていた期間、
その変化の意味に興味が湧き、心理学から学び始めた。
そして日本人というより人間として、より普遍的な幸福へと向かっていった。

それぞれ、別エントリで書く予定。

マズロー欲求5段階説

マズローは精神的に健康な人、卓越した人を対象に研究したとされる。フロイトはその逆。
人間の欲求レベルは段階になっていて、下が満たされれば上に移行するし、その逆もある。
有名な理論だけど、自らその理論を体現している人は少ないと感じる。

映画「Happy-しあわせを探すあなたへ」

心理学者、脳科学者が幸福について研究した。そのドキュメンタリー。

ルフレッド・アドラーの心理学

自由、共同体感覚、課題の分離など。
「嫌われる勇気」はすごい本。

エーリッヒ・フロムの心理学

「愛するということ」とは。
愛について世間の認識との大きな違い、愛を理解、実践することの難しさ。
信頼の大事さ、難しさ。

ムヒカ元大統領

幸福や将来の自分をイメージするときに、象徴として浮かぶ人物。
世界のリーダーたちの中で、あのスピーチをしたこと。世界を1番俯瞰的に見れていると感じた。

その他

発達心理学や精神医学の知識は、人間にとって何が弱さ、未熟さであるかを知るのに役立った。
人間は満たすべき欲求があり、それが満たされないと深刻な障害によって現れるということ。
ヴィクトール・フランクルからは人間の強さを知った。これは幸福の範疇からは外れる。

最後に

「普遍的」と書いているが、精神的に健康な人間というのが条件になっていて、
そうでないなら、まずはマイナス要因を克服せずにはその普遍性に気づくことはできないだろう。
このブログは、まずはその普遍性を求めていくところから始めていきたい。