かじまるの人生日記

いつも幸福な人間が、その人格を考察したり仲間を探すためのブログ

脳科学と心理学から幸福について学ぶ、映画「happy-しあわせを探すあなたへ」

ここまで、アドラー、フロム、マズローという心理学から人間の成長や幸福について書いてきた。
ここで、脳科学も含めて幸福について研究したドキュメンタリー映画「happy-しあわせを探すあなたへ」について紹介する。

自分の経験と、たくさんの人間を研究してできた心理学、そして、人間の進化によってできた脳についての科学の、この3つが矛盾なく混ざり合っていることが、自分の価値観を客観的にも評価できる根拠である。

インドのリキシャーマンとアメリカ人の幸福度は同じ

最初は、インドの貧しいリキシャーマンの紹介から始まる。
仕事は辛いが、家族や隣人との関係のおかげで幸せであると言う。
そして幸福度の調査では、このリキシャーマンと一般的なアメリカ人の幸福度は変わらないという結果であった。

我々日本人からすれば、インドの貧困街に住む人々の暮らしはとても幸福には見えないだろう。
だが幸福とは、国ごとの生活水準によって相対的なものである。
インドに住む人々にとっては、人間として本質的な幸せが得れていれば、
生活水準が低くとも、先進国の人間同様に幸福を感じることができるのである。

本質的な目的と対外的な目的

本質的な目的

・自己の成長
・親密な交友関係
・コミュニティーへの貢献

対外的な目的

・お金、経済的な成功
・容姿のイメージ
・権力や地位

映画では、生きていく上での目的は本質的なものと対外的なものに分けられるとして、
本質的な目的を持っている人はそれ自体で幸せを得ることができ、
対外的な目的を持つ人は人生の満足度が低く、精神的に不安定だと述べている。
対外的な目的は、達成されても喜びは一時的で、そのためさらに多くを求めてしまい、失うことへの恐怖もある。

日本では、ほとんどの人がこの対外的な目的を中心に生きているように思う。
他人との比較では、勝ち組であるかどうかが中心的な基準であるし、
その勝ち組とされる政治家や成功した経営者や容姿を評価されている女性は、既に目的を達し、羨望の対象になっているのにも関わらず、やはりその目的が中心になっている。

これはアドラーの心理学で考えるとわかるが、対外的な目的はすなわち承認欲求である。
これを満たすには、この目的を達することではなく、ただの人間としてありのままを受け入れられることが必要だということだ。


ずっと知りたいと思っているのは、この目的のタイプがどのくらいの割合で存在するか、
勝ち組とされる人の中での割合はどうか、本質的な目的を持つ人はいかにしてそれを持つに至ったか。
中々聞くのが難しいことだけれど。

フロー状態

日常的にフロー状態にある人は幸せとのこと。

そこで思い浮かんだのが途上国の屋台の料理人。
自分が何をやるべきかを完璧にわかっており、洗練された動き、没頭。
そしてたくさんのお客さんに求められている。
こういうところは大抵めちゃウマい。

同様に、職人系の仕事に就いている人でその仕事が合っているならば、日常的に幸せでい続けられるだろう。

(イメージ動画)

見事な手さばき♡ロティ作りの名人♡inタイ、パタヤ Thailand


脳の神経システムは違いを認識する

(幸せとはコントラストである、幸せを阻害するのは慣れ、とも)

例えば、安定を求めて結婚し、専業主婦になった人は始めは幸福だと思うだろう。
だが、ただ安定した変化のない人生はすぐ飽きる。
ある結婚関係の本にあったのは、そういう人は自己実現を目指してまた社会に出ていくらしい。
仕事ならいいが、お金を使って贅沢することで刺激を求め続けるようになると、
コストがかかり続け、本質的な幸せも得ることができない。
苦労はあった方がいい。その苦労への立ち向かい方は重要だ。
それを自分が求めるものではないと拒否し続けるのか、苦労をチャレンジや課題だと捉え、成長してベースが強くなると、常に幸福であり続けることもできるはずだ。

保守的な人は、変化のない何も起こらないことを求め、もし何か起こった際には強さがなければ立ち直りが難しくなるだろう。
それだけではなく、何も起こらないことは本当に満足した人生なのか、ということを問うてみるべきだと思う。
ただこういった人は元々弱さがあるので、これを認知することでさえ難しいことだとは思う。

脳の仕組みから、人生において大事なことに気づくことができる。

コウハウジングコミュニティー

デンマークのコウハウジングコミュニティーというのが紹介されていた。
複数の家族が一箇所に住み、家族の垣根なく、大人と子供が触れ合う。
毎日夕食は全員で囲み、暮らしの雑務やメリットを共有している。
これなら、便利さだけでなく、共同体感覚によって得れる幸福感も大きいだろう感じた。
核家族や子供の数の少なさは、親子の依存を生み、過保護や過干渉が多くなるだろう。
日本にもこういう形態のコミュニティーが普及することが必要だと感じる。

その他の脳科学

この映画では、人の幸福の5割は遺伝によって決まると言い切っている。
遺伝操作でもできない限り、幸せになりづらい人が存在するというのは恐ろしいとも思える割合だと感じた。
その内容には言及されなかったが、自分の知っている脳科学の知識によって少しは説明可能だと考える。

楽観性は遺伝する

これは最近の研究で出ていたが、楽観性は遺伝要因とのこと。
楽観性は幸福感に大きな影響を与える。

扁桃体は不安などを司る

不安にさいなまれたり、感情的に怒りやすかったりするのは、扁桃体が過敏になることで起こる。
これは遺伝するかは知らないが、トラウマや大きな悲しみなどを経験することで扁桃体が弱くなってしまう。

前頭葉は認知を司る

ある出来事に対してどう感じるかは大きく個人差がある。
例えば、自分が精神病になったことを絶対に他人に知られたくないと病院にも行かない人もいれば、
全く恥ずかしいことだとは思わず、その治療に前向きにあらゆる手を尽くせる人間がいる。
前頭葉がその認知を行っていて、これまで出来事に対してどう反応してきたかの積み重ねで変化していく。

神経伝達物質の分泌

幸せホルモンと言われるオキシトシンセロトニン、快楽物質のドーパミンなどは脳内の神経伝達物質である。
その出やすさにも個人差がある。

最後に

幸福とは主観的なものであり、自身を客観的に見てどうしたら良いのかを判断するのは難しいことだと思う。
この心理学や脳科学の理論を知った上で、常日頃から考えてみることで、認知を徐々に変えていくのが良いと思う。認知行動療法が手っ取り早い。


マズローの欲求段階説とその自己実現者についての誤解

アドラーとフロムとマズローは、互いに親交のある関係だった。
それぞれの理論は競合がなく、混ざり合っていて、一つの理論としてまとめることが可能だと考えている。

現在「自己実現」という言葉は大きく誤解されていて、
ほとんどの人々が求めるものは幸福ではなく、成功や栄光やそれに付随する承認である。
それをただ幸福だと思い込んでいるに過ぎない。

この記事では、
有名なマズロー欲求段階説の一般的には知られざる本質と、
その本質を見えなくしている承認欲求の大きな問題、
一般的に使われる「自己実現」という言葉とマズローの「自己実現」の違いなどを書いていく。

欲求段階説

人間の欲求には段階があり、
低次の欲求が満たされると、より高次の欲求が芽生える、という説。
さらに、高次の欲求を持つものは精神的に健康で、より幸福である、ともある。

マーケティング、経営、看護などで接することの多いこの理論だが、
あくまで他者の扱い方に利用するのみで、自己の欲求や成長に照らして語る人を見たことがない。
人間の欲求についての理論なのに、自分はどうなのかと考えることをしないのは不思議なことである。

これには2つの要因があると考えている。
・この理論を本質的に理解するのは、多くの経験、人間的な成熟が必要であること
・「自己実現」という言葉が誤解されているために、間違った自己実現を目指してしまうこと


ちなみに、経営学における欲求段階説の使用は、だいたいにおいて承認欲求止まりが一般的らしい。
マーケティング、看護においても同様だろう。
これだと、この理論を学んだという人であっても、自己実現についてそもそも知らないのかもしれない。

ほとんどの日本人は承認欲求以下に留まっている

例えば、発展途上国の子供やその親からよく聞く事は、
「もっといい暮らしができるようになりたいので、勉強をして良い仕事に就く」という言葉。
これは安全の欲求や生理的欲求すら満たせていないということの表れであろう。

日本でその欲求段階は稀で、いくら安定志向であると言っても安全の欲求は一部で、
あくまで、みすぼらしい生活はしたくないとか、他者と比較していい暮らしがしたいということであり、
これは主に承認欲求ということになる。
日本における貧困とは、相対的貧困であるということも、それを表わしている。

この段階で留まっていると、後に述べるような先の段階は見えてこず、なぜ自分が本質的に幸せになれないのか、
それに気づくこともできないままということになる。

まず承認欲求を脱するには

現代社会において、これは非常に難しいことだと捉えている。

資本主義社会では格差に晒されることにより、下層の者は、妬みや憧れなど「成り上がりたい」という想いが強くなり、
上層の者は、優越や、富に対する過剰な価値付けなど、承認欲求のより深みにハマることになる。

さらに、SNSにより、
その差が日常的に可視化されてしまったことで、常に承認欲求に囚われることになり、
何がしたいのか、自分にとって何が幸福であるかなどの価値観が大きく歪んでしまう。

現在、アイドル志望の若い女性が増えている。
女の子にとってチヤホヤされたいという欲求は当たり前のことだが、
それがすべての価値となってしまうアイドルという仕事に就いてしまうと、
栄光を手に入れられない者は常に焦燥感や不満足を感じ、
手に入れた者でも、それを失いたくないと執着してしまい、
いくら承認欲求を満たしてもそれが増長していくだけということになる。
ますますその先の自己実現からは遠のいていく。


こういう社会において、
自らの価値観を確立し、客観性を保ち続け、社会に影響されずに生きていける人間はどういう者だろうか。

これはアドラーが言っているが、
承認欲求を満たすためには、富や容姿や地位など自分の本質以外で認められるのではなく、
そのままの自分の存在を受け入れられ、認められること。
つまり本当の意味で愛されることが必要だということになる。

不幸でない環境なら、親からそれを受けることができるだろうが、
学校や職場など、社会から受けることができる者は一握りの幸運な者である。

結局は社会全体の価値観や教育が根底から変わらないと、
この承認欲求の負のスパイラルからは抜け出せないと考える。

一般的な「自己実現」との違い

マズロー自己実現が誤解され続け、人々が正しい理想を持つことができないことは問題である。
誤解されるのは下記に述べる2つの大きな要因がある。

自分のやりたいことで生きていけること、社会的成功

一般的には、自己実現というと、
自分のやりたいことをやって生きていけること、社会的に成功する、勝ち組になることだと認識されている。
この言葉はビジネスで都合良く使用され、さらにそれがコモンセンスにさせている。

例えば成功したユーチューバーは、Youtubeがなくなって稼げなくなったらそれは自己実現ではなくなってしまうのか。
栄華を極めても転落して不幸な人生を歩むのはよく聞く話だ。

自己実現とはそういった、何かになった、何かを得たという「点」ではなく、
自分そのものの「状態」のことだ。
そういう人間は常に幸福な状態であり、何かを失うリスクに怯えることもない。

承認欲求の自尊心との混同

承認欲求はその中で二分される。
他者からの承認を得ることと、自分を優れた存在だと自認すること。

この後者のことを、自己実現欲求であると混同している例が多く見られる。
この欲求は、強さや達成や能力への自信など、自身の自尊心を満たすことが根底となっている。

努力するビジネスマンや、トレーニングするスポーツ選手など、
一見自己実現に向かって行動しているような例でも、実はこの承認欲求に留まっている例が多い。

マズロー自己実現欲求とは

自分がなり得るすべての存在になろうとする欲求
人格の成長、成熟を目指す欲求のこと。
精神論だけに捉えられそうだが、この欲求を本質的に理解するためには、結局は自分がこの段階に達せないことには叶うことはない。

このことについては、下記に挙げる自己実現者の15の特徴を見れば少しは明らかとなる。

自己実現者の15の特徴

自己実現をする5年ほど前にこの特徴について初めて見知ったと思うが、
その時は自己実現という言葉とのつながりは全く無縁に思えた。
ところが自己実現以後は、自分が自己実現したと思えるゆえんを的確に表していると感じることができ、
そして好きなことをして生きるというのは、そこに到達するまでの過程の一つに過ぎないという考えに確信が持てた。

マズローがこれらの特徴を発見するにあたっては、
自己実現している者を当時存命している者や、歴史上の人物から選出し、
それらの人間を現象学的手法によって研究したとある。
独創的で驚異的な成果だと感じる。

1.現実をより有効に知覚し、より快適な関係を保つ

他人を正しく判断する能力。ごまかしや不正直を即座に見つけ出す。
嘘やアラを見抜くというレベルではなく、その人が何を求めて行動しているかの内面を判断する。

2.自己、他者、自然に対する受容

自分や他者に、罪深さや弱さがあったとしても、それをありのまま受け入れる。

3.自発性、単純さ、自然さ

動機づけが、人格の成長、成熟、完全な自分になろうとする欲求であり、そのための行動が自発的。
お金や名誉や地位を得るためには行動しない。

4.課題中心的

自分のミッションを理解し、それに従って生きている。

5.プライバシーの欲求からの超越

独りでいても、傷ついたり不安になることがない。一般的な人よりも孤独やプライバシーを好むため、他人には友情のなさや冷たさ、愛情の欠落と映ることがある。

6.文化と環境からの独立、能動的人間、自律性

物理的環境や社会的環境から比較的独立している。興味の中心が自分自身のたゆみない成長であり、自身が持つ可能性を頼りにするため、外部依存的ではない。

7.認識が絶えず新鮮である

他の人にとってもはや新鮮味がなく陳腐なことでも、驚きや恍惚感さえ持って認識する。

8.至高なものに触れる神秘的体験がある

自己実現者のすべてではないが、神秘的な体験をしている。マズローはこれを科学の対象となりうると考えたため、「至高経験」と呼ぶようにしたと。

9.共同社会感情

アドラーの共同体感覚のこと。
共同体に貢献する。この特徴が際立っている。

10.対人関係(少数との深い結びつき)

深い対人関係を取り結ぶが、友人の範囲がかなり狭い。

11.民主主義的な性格構造

階級、教育、政治、人種に関係なく、誰とでも親しくできる。
自己実現者が相手を評価する基準は、その人が持つ性格や能力、才能である。

12.手段と目的、善悪の判断の区別

善悪を区別する高い倫理性を持つ。
手段と目的を区別し、目的を重視する。

13.哲学的で悪意のないユーモアセンス

通常の人とは異なったユーモアセンスを持つ。ただ笑わせるというより、諺や寓話にも似たユーモアである。

14.創造性

特殊な創造性、独創性、発明の才を持つ。創造性は、天真爛漫な子供が持つものに似ている。
大人になる中で失われていくこの創造性を持ち続けるか、一旦失ってもまた回復させる。

15.文化に組み込まれることに対する抵抗、文化の超越

文化にどっぷり浸からないが反逆するわけではない。
社会の法則ではなく、自分の法則に支配されている点で超越的。

この特徴の中で自分が該当していないもの

至高なものに触れる神秘的体験がある
そういったものを経験した覚えはない。
ただし、この至高経験についての説明は抽象的にしかされておらず、B価値(Being<存在>)を求めることだ、と書いてあったりで、実感として理解ができていない。

哲学的で悪意のないユーモアセンス
人の楽しませるのは好きだし、そのセンスも変わっているが、全く崇高なものではない。ぶっちゃけ下ネタである。

該当している特徴

その他の該当しているものについては驚くほど当てはまっている。
そして、この面で、自分は他者とは大きく違うということがわかっている。
以前は、実際に他者との関わりで、自分は普通ではないということに悲観はしないが戸惑うことは多かった。

この特徴はそれぞれが独自に散らばったものではなく、
ある人格の段階に到達した人間なら自然に備わるものであるという、言葉ではうまく言い表せない実感がある。
もちろん、こういう特徴を持とうと思って持ったわけではなく、ただ人格の成長を志向していたら自然と持つに至ったというのが正しい。

ゆえに、自己実現者というのは、
人間としての普遍的な成長の到達点の一つ、だと考えている。

なぜ自己実現者が見つからないか

マズロー自己実現者に至るのは全体の1%以下と言っていて、
その時代から50年ほど経ち、価値観の多様化、仕事の世襲制がなくなり、
どう生きるべきかという迷いは増えたのだろうから、当時より割合は減っていると予想している。

それでも、人間として普遍的な理論ならば多くの自己実現者が存在するはず。
見つからない理由の一つとして、自己実現者は地味で表に出ようとしないので、知られることがないということが考えられる。

実はテレビのドキュメンタリー系の番組などで、自己実現していると思われる人はチラホラ見つかる。
ただの苦労人で素晴らしい人、みたいな紹介のされ方だからわかりづらいが、やはり特徴が際立っている。

自己実現者にすごく会ってみたいので心当たりがある方は連絡ください。

第6の段階「自己超越」について

マズローが晩年唱えた「自己超越」という段階。
至高経験をしている自己実現者ということだが、それに段階を設ける必要性など、理解できていないことが多い。
自己超越者も、いたら会ってみたい。

この理論への批判

どういう批判があるか詳しくは知らないが、とりあえずwikipediaに載っていたものについて。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%B2%E6%B1%82%E6%AE%B5%E9%9A%8E%E8%AA%AC_(%E3%83%9E%E3%82%BA%E3%83%AD%E3%83%BC)#.E6.89.B9.E5.88.A4.E7.9A.84.E6.84.8F.E8.A6.8B
1つは、親が子供に言語や規範といった文化を身につけさせるまでは好き勝手な行動をさせないという事実からあきらかなように、環境要因を無視した欲求の発展は考えにくく、生物学的にだれもがこの順序をたどるとは言えないという批判がある。さらに、生物学的に人間の欲求発展に違いがあるとすれば、発展の違いがもたらす社会的不平等は自然であり正しいという考えを許容する危険性があるという批判もある。
第2の批判は、マズローが普遍モデルを志向していたにもかかわらず、結局は個人主義に価値をおく西洋的人間観をモデル化したに過ぎないというものだ。従って、西洋以外の世界においては妥当性を持ち得ない。例えばRobbinsは、マズローの枠組みはアメリカの文化が前提であり、日本の場合は安全欲求が一番上になると述べている。さらに、マズロー理論は保守主義イデオロギーに対抗する自由主義イデオロギーの表出に過ぎず、西洋世界においても妥当ではないという議論もある。
第3の批判は、自己実現の段階に到達するためには欠乏欲求を乗り越える必要があるという、階層の順番に対する批判である。欠乏欲求を満たすには商品を購入する資力が必要だが、それでは結局自己実現は資力にかかっていることになってしまう。では反対に、資力があれば誰でも自己実現が可能かといえば、それも困難である。身の回りに商品を溢れかえらせることが自己実現であるとするならば、商品の集め方によってしか人間の個性が決まらないことになってしまう。

1つ目は、生物的な普遍性であれば、例えば日本に住む人間と、アフリカに住む人間の手の指の数は変わらない。だがこの理論は、人間の人格の理論である。環境要因によって違いが生まれるのは当然のことだろう。段階のスタート地点や上りやすさに差はあれど、それが段階になっているというこの理論の主張を覆すことはできない。また、欲求の段階によって社会的に差が出るわけではない。あくまで内面的な人間の成長の段階だ。それで差別するような人間は、結局他の要素でも差別をするだろう。

2つ目は、これは国によってどの段階に留まってしまうかが違うだけで、要はその段階を超えた時にどの段階に行くかということが普遍的であるということである。また、日本は安定志向であるため、安全欲求を一部持つが、主体となるのは他の国と同じ承認欲求である。

3つ目は、物がある(買うとは限らない)ことで満たされるのは人間として最低限の暮らしができる生理的欲求と、安全の欲求のみだ。それ以降は、1人で生きていない限り満たしていくことができる。特に、承認欲求を物で満たすと考えているならば、大きな間違いをおかしている。

子育てや結婚などで今の欲求段階は保てるのか

anond.hatelabo.jp

ふと見つけたこの記事に付いていたこのコメント

id:k_oniisan 承認欲求が最も熾烈なのは20代で、そこを首尾よくクリアすると自己実現欲求に苦しむようになる。でも殆どの者は、大人になってから欲求レベルが後退する。子育ての苦悩や将来の不安によって。

確かに、今の安定した幸福度や欲求段階は、余裕のある1人の生活だから実現できているかもしれないという可能性はある。
大変と言われる子育てや、結婚での失敗によって、自分がこの段階を保てるかどうかは確信が持てない。経験したことがないことはわからない。
経験者からの助言ということで心に留めておこうと思う。
もちろん、そういった危機的状況に立ち向かってみたいという興味も、別として持っている。


マズロー心理学入門―人間性心理学の源流を求めて

マズロー心理学入門―人間性心理学の源流を求めて

本当の愛とはなにか。エーリッヒ・フロム「愛するということ」

アドラーと切り離すことのできない、フロムの愛について。

現在、愛という言葉には二つの定義がある。
ドラマや映画など、世間一般的に使われる「恋」との差がなくなった「愛」
そして、今回のテーマである親が子に対して持つような見返りを求めない「愛」

なぜ、「真実の愛」だと思って結婚したはずなのに、
結婚して数年後、愛し合えているとは言えない夫婦が多くいるのか。

それは、前者の「愛」、つまり「恋」しか行えておらず、
本当の「愛」を行えていないからである。

この本との出会い

結婚に関する本をいくつか出版されている著者の方と話す機会があった。
そこで、「嫌われる勇気」はすごい本だと思っていることを話した時に、この本を勧められた。
読んでみると、第二のバイブルとなるほどの衝撃を受けた。

愛するということ

「愛される」ではなく「愛する」ための本だということ

ちまたにある恋愛本は愛されるためのものばかりである。
どうしたら愛されるかのスキル、どういう人が自分を幸せにしてくれるかの知識など。
これは恋愛においては大事なことだろう。

恋愛は人間的に未熟であっても、本能的な部分だけで行うことができる。
相手への不満が募れば別れればいいし、ケンカしても取り繕って仲直りできる。
いくらワガママを通しても、相手が自分に何らかの価値を感じていれば、お互い幸せだと感じながら付き合い続けることも可能だ。

だが、結婚となると全く別だ。
2人で何十年も夫婦の課題、家族の課題に取り組む必要がある。
愛されるスキルしか持たない人間が、自分と家族を幸せにすることはできないだろう。

また、生物的に恋愛感情は4年ほどしか継続しないという変えがたい事実もあるが、
恋愛状態においてこの知識を踏まえて結婚を考えられる客観性を持つのは難しい。

では愛するとはどんなこと?

相手を幸せにしたいと思うこと。
それは、相手を成長させることでもある。
人間が本当に幸せになるには成長が必要だ。それを促すのも、大事な愛の行動である。

相手を幸せにしたいと思うのは当たり前のことだと思われるかもしれない。
だけど、これには、「自分がどう思われようと」という条件がある。
自分が認められたいから、好かれたいから相手に何かをしてあげるのは愛ではない。
より難しいのは、相手に良くなってもらうために、自分が嫌われてでも厳しさを持つことができるか、ということだ。

本当に愛するレベルにある関係性なら、お互いがそうやって高め合い、関係性も深くなっていくだろう。

そして、いくら幸せにするという意志を持てた相手でも裏切られることはある。
人は弱さゆえに裏切ることがあるがそれはしょうがないことだ。
だけどそこにリスクを感じてはいけない。
人間は弱い、それを理解し、許容できる寛容さまでも、
愛することができる人間というのは持つ必要がある。

ただし、他人を利用しようとする人は、愛の対象にはならない。
結婚相手をステータスのごとく考えたり、恋愛の上下関係を元にわがままを通したり。
結婚するときには、愛する対象になり得るかどうかを見抜く必要がある。

運命的な愛という間違い

愛は、運命で行うものではなく、意志や知性で行うものだ。
若い女性が運命やロマンティックに憧れるのは、自分を特別な存在として承認して欲しいことの表れである。
運命的な愛というのは、未熟な恋でしかない。

人格の成熟が必要だということ

与えられるではなく、与える段階に達していないと、愛することはできない。
アドラー心理学と同じく勇気、強さ、知性が必要である。
まずは、依存心やナルシシズム、他人を利用したり何でも溜め込もうとする弱さを克服するところから始まり、
その上で、強くあろうと生涯成長を志すことだ。

結婚生活とは気を遣いながら送るものではない

夫婦とは気遣いながらやっていくものという常識があるが、
そんな浅い関係性は脆くても仕方がないことだろう。
フロムはこうした関係を、生涯他人のままであり、中心と中心の関係にはならない、と表現している。
成熟した人間同士ならば、ありのままの自分として向き合え、それを認めあうことができる。

自分の子供に対する愛が一番易く、他人になるほど難しい

子育ての大変さという意味ではない。
愛するという意志を持てるかどうか。
自分の子供であれば大抵のことは許せる。
反抗期でどんなに嫌われようと、自分は子供を裏切らないことが愛だ。
だが、親、兄弟、恋人、友人と、他人になるにつれ、それは難しくなっていく。

資本主義と愛

資本主義とは、基本的には個人の利益を追求する社会である。
この社会にあって、利他を必要とする愛に気づくのは難しい。

愛することの難しさ

多くの人が弱さを持っている。

  • 自分に何をしてくれるかで相手を見る人
  • 見捨てられることの恐怖ゆえに他者に害をなす人
  • 他者に認められなくては自己の存在価値を認めることができない人
  • プライドが傷つけられた時にその補填として未熟な行動をとる人

そして、他人は自分のために存在すると信じ、
傷つけることも厭わないような、元々愛することができない人もいる。

実は、結婚するくらいの年齢でこれらの弱さを克服し、与える段階に達している人は少ない。
だがそれで幸せな結婚ができないというわけではもちろんなく、
自分の弱さを理解できる知性がありさえすれば、
その人はその後の人生で弱さを克服していくだろうと思う。

愛することができる世界にしたい

はてブでも結婚のメリット・デメリットが語られたり、
良くあるための具体的な対策案をよく見るが、
もっと俯瞰的に理想の世界を考えてみたい。

今の世の中は、
他者との比較や、メディアなどからの表面的な恋愛の常識の形成、
そういったものゆえに本当の愛が見えづらくなっている。
自分で考え、答えを見つけていける者だけが、理解し、
愛についての経験、成長を経た者だけが、行うことができる。

そういった人間を増やすにはやはり教育だ。
まずは流行からで良い。
本当の愛についての価値が知れ渡り、
親になる人間達がそれを正しいものだと理解すれば、
その子供にはそれを教え、世代が変わるごとに愛することができる人間は増えるだろう。

長い時間がかかることだが、そうせざるを得ないこともわかっている。
大学の授業でこの本を読んだ人に聞くと、
当時は難しくてわからなかったということだった。
旧訳の方だったのだろうが、当人の愛の経験が乏しいと理解すらできないということだ。
本を読んで、その価値を理解したとしても、行動できるまでに数年はかかるだろう。

この部分にビビッときた

フロムは、愛を与えることは自分の生命を与えることだと述べています。ここで言っている生命とは「命」のことではなく、「自分の中に息づいているもの」のことです。相手に対して、「自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分の中に息づいているもののあらゆる表現を与える」ことが愛だとフロムは言うのです。そして、「与えることによって、かならず他人の中に何かが生まれ、その生まれたものは自分に跳ね返ってくる。ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受け取ることになるのです。

自分はまさにこういう意識で他者に接してきて、理由はわからないがすごく重要だと思っていたことだった。
これが確かに愛なのだとわかるけど、他の人の例も聞いてみたい。

本は新訳の方で

本は下にリンクした新訳のものと、
NHKの「100分de名著」の二冊とも読むことをオススメする。

アドラー心理学の実践者が「嫌われる勇気」の本について書くこと

この本を読んだ時、これまでの人生で、試行錯誤しながら課題を乗り越え得たものが、
そのままこの心理学のエッセンスになっていると感じた。

この本についてたくさんの書評があるが、
この心理学を既に実践している者からの評価はあまりないようなので、
自分の経験を踏まえて書くことは有意義な情報になるかと思う。

前提として自分が育った環境について

家族からは過度な干渉はなく充分な愛情を受けて育ち、
学生時代から社会人になっても、基本的に周りに存在を認められ尊重を受けてきた。
そのためか、誰かに・何かに依存することはなく、嫌われることすら厭わず、
無理にアイデンティティを求めず、お金や地位にも興味なく、
自分だけ良くあればいいではなく、みんなが幸せであるようにと考える人間になっていた。

発達心理学では人生の時期によって満たすべき課題、欲求が定義されるが、
その欲求が常に充分に満たされてきたのだと認識している。

アドラー心理学のエッセンスと自分の経験

嫌われること

実はこの本に出会うちょうど一年前、当時の交友関係に関してある葛藤があり、
そのときに『嫌われてもいいんだ』と明確な意識があったことを覚えている。

嫌われた時にはもちろん普通にショックを受ける。
だが、それを乗り越えられる自信や強さがかなり大きいと思われ、
嫌われるかもしれないというリスクが行動の制限になることはない。

シニカルに「自分は嫌われてもいい」と言う人がいるが、
諦めだったり、潜在的に承認されることを渇望している場合は、正反対のものなので注意が必要。

自由

自由とは、ありのままの自分で、縛られることなく生きること。

(エピソード)
最初に自由を実感したのは四国お遍路をしていたとき。
かなり厳しい体験だったので、常識や体裁などを気にする余裕がなく、山や田舎道で立ちションをしていたら
急に「これが自由か」と解き放たれたような明確な意識を得た。
アホみたいな体験だけど、真面目な話。
もちろん、アドラーの言う対人関係における自由が主な経験となるが、本質的には同じ。

こういう経験をいくつもしていると、カントの自由も、アドラーの自由も、心から理解できると思う。
常識や文化に沿わない人は嫌われる。バカにされる。こういう恐怖に打ち勝てないと、
いかに常識に縛られているかも気づけず、自分の本当の生き方に気づくこともできない。

社会的に成功して、裕福で、自由にやりたいことができるという幸せがある。
それは金銭的、社会的に自由であるという意味で、ここでの自由とは全く違う。
結局は、人にどう見られるかの意識から解放されているか、
自分が本当に何をして生きていきたいかに気づき、行っているかどうかが大事だ。

自己受容

自分の能力の低さ、コンプレックスも含めて、ありのままを受け入れること。

(エピソード)
仕事で、認められたいではなく、心から貢献したいと思ってやっていたが、自分の能力の低さゆえにうまくいかない時期が続いた。
体を壊すくらいに既に努力はしていたし、原因は、会社と自分の能力のミスマッチとしか考えられなかったのでどうしようもなかった。
そんなときにこの本に出会って『課題の分離』を知ったことで、
『自分は出来る限りの努力をしていればそれでいい。あとはクビにするなど会社側が決めること、会社側の課題だ』
と思うことができた。
そしてそこで、自分のマイナス面もすべてを受け入れた感覚があり、それが自己受容なのだと気づいた。

共同体感覚

他者を仲間とみなし競争ではなく協調する、これを居場所とし、幸福を得ることができる感覚。

(エピソード)
育った環境ゆえ、他者は良いものだという認識があり、
陰口や批判などの裏切りがあっても、まずはそうするに至った理由を汲み取ろうとするし、
それに耐えるうるという自信もあるので、対人関係に入っていくことに恐怖することがない。
そしてすぐに相手に尊敬や信頼を持つことができる。(信頼と信用とは別。信用して騙されるのは知性の問題である)
競争相手ではなく仲間だと思えるから、素直に祝福できるし、幸福にしたいと思う。
そういう感覚と行動によって、日常的に幸福を得ることができている。

ついでに性善説性悪説について。
人間は元々は善くありたいと思うものなので、性善説が正しいと考える。
ただ、生きていく中で弱い自分を守るために、人に害をなさざるを得ないというだけだ。
サイコパスは例外とする。

今ここを生きる

何者かになる必要はない。ただ今を一生懸命生きていれば良い。

(エピソード)
若いときは、その時の自分に満足できず、理想の自分になれないことに焦りや、ネガティブな気持ちがあった。
承認欲求が小さいことと、日々努力できるようになったこと、一生懸命に生きて後悔なく充実した毎日を送れるようになったことで、自分のありのままで満足できるようになった。
死生観にも影響していて、死ぬ時に多くの人に悲しんでもらいたいとか、立派な墓や世の中に爪痕を残したいというような、自分がいなくなった未来のことなど全く関心がない。

誤解されやすい/そのまま受け取ってない箇所

「嫌われる勇気」というタイトル

この心理学の全体を表しておらず物足りなさを感じるが、一番の本質であると思う。
各エッセンスを実践するに根幹となる必要条件が、嫌われる勇気だということ。
そして、これが一番難しいということ。

承認欲求の否定

マズロー欲求段階説にある通り、人間である限り、自己実現を達成したとしても、少なからず承認欲求はあるはず。
ない人がいたらかなり興味があるのでぜひ話してみたい。
この心理学で言わんとしていることは、『承認欲求を動機とした行動』を否定するということで、
その欲求を持つこと自体を否定しているわけではないと解釈している。
自分の場合だと、承認欲求を動機として何かを決定したり行動することは一切ないが、
例えば何か達成したときなど、褒められれば素直に喜んでいる。これは承認欲求ゆえのものだと思っている。

トラウマの否定

岸見さんの他の本によると、アドラーは軍医をしていたので、PTSDレベルのトラウマの存在を知らなかったはずはないとあった。
ではこの意味とは、トラウマを『行動できないことの理由にすること』を否定しているということらしい。
脳でいうと、認知を行うことと、トラウマ反応は明らかに違うものである。
認知について言っているのなら納得できる。

褒めてはいけない

これは納得できていない。
褒められたとして、そこに相手との上下関係を意識するだろうか?
自分の場合は素直に喜ぶだけなので理解できず。

「嫌われる勇気」という本

出版から3年経った今でも、大型書店のビジネスコーナーではランキングに入っているし、Amazonのレビューも類を見ないほど高いものになっているので嬉しい限りである。

これまでも「7つの習慣」など人生に影響しそうな本は読むようにしてきた。
でも「嫌われる勇気」という本は、自己啓発や、ライフハックという枠を超え、バイブルに出会ったくらいの衝撃を受けた。
他のアドラー関係の本を数冊読んでみたが、やはり「嫌われる勇気」がダントツでわかりやすいし深い。
あとに出た「幸せになる勇気」もこの本ほどではないが、とても大事な本。

最後に

この本を実践するということは、現状では世間とは大きく乖離するということだ。それほど常識とは異なっている。
だけど、人間としての普遍的な成長の要素でもあると考えている。

自分も、最初から求めてこうなったわけではなく、苦しみや葛藤を乗り越え学んだ後に、自然に変化したものだ。
現在では、何が起こればこの安定して高い幸福感が阻害されるのか、ということに興味すらある。

正しくはない宗教や自己啓発セミナーなどは、
ただ祈れば、これを買えば、これを行えばと、そういう手軽な手段で幸福を得れると説く。
だが、弱さや未熟さを克服せずに得れるものは刹那的、依存的な幸福でしかない。自分の内面の変化すら起こらない。

実践するのが本当に難しい心理学だと思う。
実践できずとも、これを知り、正しい方向に向かうだけで有意義な人生になるはずだ。
確実に成長はする。
だが最初は常識の枠を外れるというだけでも相当に大変なことだろう。


嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

心理学的なユートピア、ユーサイキアの世界

怪しいタイトルになってしまった。

マズローが提唱した「ユーサイキア

すべての人が心理学的に健康であるような心理学的なユートピアの状態、これをユーサイキアと呼ぶ。自己実現が達成されるような理想社会のこと。要するに、世の中が自己実現者ばかりで、その際に実現するであろう理想の文化や社会。

自分も同じようなことを考えていたので、これを知って興奮した。

僕が考えた最高の世界

前提

自己実現は自己受容を経ることなしに達成できない。
マズローの理論でも明示してあるし、経験からしてそれが当然だという認識がある。
この世界では下記2種類の人間がいるものとする
・自己受容を経た自己実現
・自己受容者

すべての人が少なくとも自己受容をしている

ありのままの自分を受け入れる強さを持っているということであり、弱さや未熟さゆえに他者に害をなすこともないということ。

競争は必要ない。戦争もない。軍事予算とかいらない。
過剰サービスなどなくても今あるもので満足できる。
見栄を張る必要ない。特別でなくてもいい。
対人関係で気を使う必要がなく、すぐに信頼を築け、共同体感覚が得れる。

人間が自然体のままで幸せに生きていくことができる。

文明の発展は、そのコトに自己実現を見出した自己実現者が行う

私利私欲で動く人はおらず、自己実現者のモチベーションに競争原理は必要ない。
会社や国を超えて一つのことに科学者や技術者が取り組む。
医療や科学やIT、すべての分野で、発展の速度は大幅にアップする。
この人たちにとって高待遇は必要ないが、一応、それ以外の人たちよりは裕福な生活ができることにする。

現在の常識では、
発展にはマイナスの動機が必要だと思われている。
女にもてたい、周りより幸せになりたい、金持ちになりたい、地位を得たいという承認欲求は、大きな力を発揮する。
だけど、その承認欲求を実現したあと、その人は幸せでい続けられるのだろうか?
実現する過程で他者を陥れることはないだろうか?

最初の目的は達成したのに、なぜか幸福が続かないから、人はさらに承認欲求を追い続ける。
自分でその状態に気づくことは難しい。
そして結局は、こういったマイナスの動機は発展を大きく阻害する。

自己受容者たちはベーシックインカム的なもので生活する

共産主義で良い。競争のないこの世界では経済すら必要ないかもしれない。
食料供給や単純労働は、上記の理由で大きく発展したロボットが行う。
もちろん、幸福に生きるにはダラけて遊び呆けるより、働いたほうがいい。
働きたい人は、福祉でも何でもいいけど、好きに仕事を見つけてやればいい。

娯楽はもちろんある

自己実現者でも自己受容者でもいいが、提供したいと思った娯楽は自由に作ればいい。
基本的な娯楽は国営でもいい。
アーティストもお金を儲ける必要がないので、自己表現、承認欲求でもいいが、自由に人々を楽しませてくれるだろう。

社会的弱者が守られる

高齢者、障害者、そして子供などは他者の助けを必要とする。
助けとは物理的なものだけでなく、精神的な、コミュニケーションの方が重要となる。
自己受容まで達成できる人間なら、自ずと弱者を助けたいという欲求を持てるので、無理なく助け合える社会が実現できる。
すべての人間が幸福に生きることができる社会になる。

その実現性は

一番の難題はすべての人が自己受容するということ。
自分のマイナス面を受け入れて前向きに生きていける、そんな強さを持てる人間は一部だろう。
全世界的に基礎の教育としてアドラー心理学を導入しても、それを正しく教えられる教師、そして親ができるまでに数十年。
そもそも、家庭と学校で教えたからと言って、人生の様々な課題を経験することなく達成できるのかは難しい。
自己実現の方は、能力のある人間が自己受容をしていれば自ずと達成されるはず。

おわりに

これはいつも思考の遊びで終わってしまっている。
とはいえ、著名な心理学者も同じことを考えたということで、
この価値が評価される可能性はあると思えた。

理想だとしても、それが正しいものであることが必要だ。


マズロー心理学入門―人間性心理学の源流を求めて

マズロー心理学入門―人間性心理学の源流を求めて

このブログの目的

前提

まずブログ主は下記のような自己認識を持つということが前提となる。

(この前提は誤りである可能性はあるので、気づき次第変えていく)

なぜ心理学を用いて説明するのかというと、
人の本質は、内向的や外向的、性格が良い、気遣いができるなど表層のみを知ったところで本当の理解はできない。
表出した特徴のその内側で何を考えているか、何がしたいのか、窮地に陥ったときに出る言動など、そういったものを深く知る必要がある。
その内面を適切に表わしてくれるのが上の心理学だ。

この心理学については、別記事で詳しく書くが、
とりあえずここでは適切に伝えることを意図して心理学を用いている。

ブログを書く意義

上記のような性質を持つ人間が書くものを見たことがない。
その片鱗が伺えるような著作物はもちろんあるが、著者がそうであるかというのはやはり奥まで探ってみないとわからないものである。
そして、本当に幸福な人間の声は小さい。
まず承認欲求を満たすための表現をする必要がないし、
わざわざ叩かれるリスクを犯してまで情報を共有する選択をしないのだろう。

守るものがないからこそ書けることがある。
有名人でも社会的な地位があるわけでもないので、何でも書ける。

こういう人間が書くこと、それ自体が意義となると考えている。

目的

社会に有用な情報を提供したい

人とはどうあるべきか、結婚、育児など、人生に有用だと思う記事を書いていきたい。
何も知らなかった過去の自分が見て興奮するような記事を想像して書きたい。

情報を得たい

自分の知識は浅いので、政治、社会、教育のことなど詳しい人と知り合いたい。
本で学べる基本的なことではなく、実情を知り、全体を知り、俯瞰的にみれるレベルの人。
あと、結婚後10年ほど経っても幸せな結婚生活、子育てをしている人の話はぜひ聞きたい。

仲間を探したい

マズローの言う自己実現者であろう人物は、テレビのドキュメンタリーやビジネス系番組でチラホラ見つけることができた。
「なぜそれを行うか」という問いに皆、同じような答えをあげる。
成功者というより苦労人のイメージだけど、成熟しているし、本当に幸福なんだなと思う。
リアルでは出会えてないけど、ネットならたくさん見つかるはず。色んな話をしてみたい。

自分の考えがどう受け止められるのか

読んだ人がどう反応するのか、叩かれるのか、楽しみがある。
哲学的な話をするとリアルでは大抵拒絶されている。
客観的、論理的に考え学習もした上で書いているつもりだが、これこそが正しいとは全く思っていない。
より良い価値との出会い、根本的な間違いに気付かされ、自分の人格をひっくり返すような事に出会えたら素晴らしい。

現在の自分を子孫に残したい

普遍的な幸福、成長過程は、数十年後でも変わらないはずなので参考にしてもらったら嬉しい。
変わった人間であったということがわかるだけでも面白いはず。

まずは

このブログが多くの人に読まれないことには何の目的も叶わない。
今後、一般的に検索されそうなタイトルの記事も書く予定があるので、それに期待。

あまり理解されない本当に幸福な人間

これまで幸福に生きてきた。
ここ数年の間、他の人は自分ほど幸福を得てはいないのだということに気づいた。
そこで、人間の幸福というものに興味を持ち、
心理学、哲学、脳科学、精神医学と学習の範囲を広げることになり、
人間としての普遍的な幸福、幸福と成長とのつがなり、普遍的な成長の過程というものがあるのではと思い至った。

自分がなぜ幸福であるか

嫉妬をしない

同僚、同級生の成功や幸せを知った時に、喜びや憧れはあっても、嫉妬をすることはない。
競争も、それ自体は楽しくて好きだが、自分が勝ちたいから競争するのではないし、負けてもただ相手を尊敬し、自分の成長への動機とするなど、マイナスに陥ることがない。

誰かを失う、何かを失うことの恐怖がない

人にも物にも地位にも依存することがない。
それを失う恐怖ゆえに日常的に思い悩んだり、やるべきことをやれないということがない。
後悔もなく充実した人生であるためか、自分の死についても同様。

大事なものに気づける

恋愛の別れや近しい人の死、日常の素晴らしさなど、失ってからでないとわからないことがあることを知っているので、今あること(存在・所有)の大事さに気づくことができる。
また、この幸福はこれまで出会った人たちのおかげであることを理解しているため、多くの人に感謝をしている。

自己肯定感が充分にあり自己受容ができている

色んな経験、成功体験を積んできた。失敗の体験の方が多いけれど。
自分が否定されても、窮地に陥ろうとも、それを素直に受け入れ、前を向いて進むことができる。

ちなみに、自信と自己肯定感は異なるものだが、どちらも過ぎるのは良くない。
自信はその根拠もなく自信過剰になってしまうと、謙虚さがなくなり、自分を客観的に見れず、成長を止めてしまうし、
自己肯定感が過ぎれば、自分に否がある場合でもそれを認めず、ありのままの自分で良いのだ、と正すべきを見えなくしてしまう。
ほどほどというか、どちらも充分にあっていいが、それを制御できる人格が必要である。

自由である

自由奔放という意味ではない。
やると決めたことを、それが人にどう見られようと、常識や文化に外れることだとしても行うことができる。
また、素直さにもつながっている。大人になっても素直さを持ち続けている人間というのは、無防備に晒した自分を否定される恐怖を乗り越えた人間だということだ。

内発的動機づけによる成長欲求を持っている。好奇心がある。努力ができる

ただ自分を向上させたい、より良い人間になりたいという動機。
狭く偏らず、広い世界に向けての好奇心。
そしてそれを実現するための努力ができる。地道な積み重ね自体を楽しめる。

共同体感覚を持っている(アドラー心理学

社会や周りの人間を幸福にしたいという欲求がある。自分ができる範囲で。
嫌われること、疎外されることへの恐怖はなく、ただ自分から好意を持てる。
自分勝手な人、批判ばかりで他者の評価を下げる人、それらは未熟さや弱さが動機となっていることを知っているので、否定することもない。(下に見てるのではなく、それはそうせざるを得ないのだということを理解している)

少しで満足できる。多くを求めない

人が身の丈に合わないお金を使い方をしたり贅沢をするのは、承認欲求が1番の理由だろう。その次は染み付いた生活水準を落とすことができないことだろうか。
まず、承認欲求が満たされた者はそれによる贅沢をする必要がない。
そして生活水準を落としても幸福であり続けることは可能だという仮説を持っているが、今後のエントリで詳しく説明してみる。

一般的な幸福とは

上に書いたことに納得できない人もいると思う。
キレイ事、決して最上の幸福ではないとか、安定はしているが些細な幸福だろう、という感じだろうか。

書いてる途中、ふと「幸福な人間」みたいなキーワードで検索をしてみた。

私ほど幸せな人はいない! : 家族・友人・人間関係 : 発言小町 : 大手小町
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2013/0320/581080.htm

このトピ主の状況は誰にとっても幸福だろう。しかもかなり得難いほどの。
一般的な幸福のカタチと言える、裕福さ、素晴らしい家族、他者からの評価、容姿端麗など。
先に挙げた幸福と、言っていることが全く異なっているのが面白い。

幸福の違い

これはどっちが良いと比較するものではない。
論理的に比較したとしても、納得できるものにはならない。

ではどういうことか。

愛が満たされていない、
承認欲求が満たされていない、
自己肯定感が低い、
そういった人間の未熟な部分を克服していったとき、
幸福の価値観とは自然に移行していくものだと考える。
その時、小町の方の外面的な幸福ではなく、内面的な幸福について価値を求めるようになる。
これはそうなってみないと理解できないものだと考えている。

幸福の価値観とは、人間の成長レベルによって変わっていくものだということ。

普遍的な幸福を説明できる心理学など

自分が大きく変わっていた期間、
その変化の意味に興味が湧き、心理学から学び始めた。
そして日本人というより人間として、より普遍的な幸福へと向かっていった。

それぞれ、別エントリで書く予定。

マズロー欲求5段階説

マズローは精神的に健康な人、卓越した人を対象に研究したとされる。フロイトはその逆。
人間の欲求レベルは段階になっていて、下が満たされれば上に移行するし、その逆もある。
有名な理論だけど、自らその理論を体現している人は少ないと感じる。

映画「Happy-しあわせを探すあなたへ」

心理学者、脳科学者が幸福について研究した。そのドキュメンタリー。

ルフレッド・アドラーの心理学

自由、共同体感覚、課題の分離など。
「嫌われる勇気」はすごい本。

エーリッヒ・フロムの心理学

「愛するということ」とは。
愛について世間の認識との大きな違い、愛を理解、実践することの難しさ。
信頼の大事さ、難しさ。

ムヒカ元大統領

幸福や将来の自分をイメージするときに、象徴として浮かぶ人物。
世界のリーダーたちの中で、あのスピーチをしたこと。世界を1番俯瞰的に見れていると感じた。

その他

発達心理学や精神医学の知識は、人間にとって何が弱さ、未熟さであるかを知るのに役立った。
人間は満たすべき欲求があり、それが満たされないと深刻な障害によって現れるということ。
ヴィクトール・フランクルからは人間の強さを知った。これは幸福の範疇からは外れる。

最後に

「普遍的」と書いているが、精神的に健康な人間というのが条件になっていて、
そうでないなら、まずはマイナス要因を克服せずにはその普遍性に気づくことはできないだろう。
このブログは、まずはその普遍性を求めていくところから始めていきたい。