かじまるの人生日記

いつも幸福な人間が、その人格を考察したり仲間を探すためのブログ

本当の愛とはなにか。エーリッヒ・フロム「愛するということ」

アドラーと切り離すことのできない、フロムの愛について。

現在、愛という言葉には二つの定義がある。
ドラマや映画など、世間一般的に使われる「恋」との差がなくなった「愛」
そして、今回のテーマである親が子に対して持つような見返りを求めない「愛」

なぜ、「真実の愛」だと思って結婚したはずなのに、
結婚して数年後、愛し合えているとは言えない夫婦が多くいるのか。

それは、前者の「愛」、つまり「恋」しか行えておらず、
本当の「愛」を行えていないからである。

この本との出会い

結婚に関する本をいくつか出版されている著者の方と話す機会があった。
そこで、「嫌われる勇気」はすごい本だと思っていることを話した時に、この本を勧められた。
読んでみると、第二のバイブルとなるほどの衝撃を受けた。

愛するということ

「愛される」ではなく「愛する」ための本だということ

ちまたにある恋愛本は愛されるためのものばかりである。
どうしたら愛されるかのスキル、どういう人が自分を幸せにしてくれるかの知識など。
これは恋愛においては大事なことだろう。

恋愛は人間的に未熟であっても、本能的な部分だけで行うことができる。
相手への不満が募れば別れればいいし、ケンカしても取り繕って仲直りできる。
いくらワガママを通しても、相手が自分に何らかの価値を感じていれば、お互い幸せだと感じながら付き合い続けることも可能だ。

だが、結婚となると全く別だ。
2人で何十年も夫婦の課題、家族の課題に取り組む必要がある。
愛されるスキルしか持たない人間が、自分と家族を幸せにすることはできないだろう。

また、生物的に恋愛感情は4年ほどしか継続しないという変えがたい事実もあるが、
恋愛状態においてこの知識を踏まえて結婚を考えられる客観性を持つのは難しい。

では愛するとはどんなこと?

相手を幸せにしたいと思うこと。
それは、相手を成長させることでもある。
人間が本当に幸せになるには成長が必要だ。それを促すのも、大事な愛の行動である。

相手を幸せにしたいと思うのは当たり前のことだと思われるかもしれない。
だけど、これには、「自分がどう思われようと」という条件がある。
自分が認められたいから、好かれたいから相手に何かをしてあげるのは愛ではない。
より難しいのは、相手に良くなってもらうために、自分が嫌われてでも厳しさを持つことができるか、ということだ。

本当に愛するレベルにある関係性なら、お互いがそうやって高め合い、関係性も深くなっていくだろう。

そして、いくら幸せにするという意志を持てた相手でも裏切られることはある。
人は弱さゆえに裏切ることがあるがそれはしょうがないことだ。
だけどそこにリスクを感じてはいけない。
人間は弱い、それを理解し、許容できる寛容さまでも、
愛することができる人間というのは持つ必要がある。

ただし、他人を利用しようとする人は、愛の対象にはならない。
結婚相手をステータスのごとく考えたり、恋愛の上下関係を元にわがままを通したり。
結婚するときには、愛する対象になり得るかどうかを見抜く必要がある。

運命的な愛という間違い

愛は、運命で行うものではなく、意志や知性で行うものだ。
若い女性が運命やロマンティックに憧れるのは、自分を特別な存在として承認して欲しいことの表れである。
運命的な愛というのは、未熟な恋でしかない。

人格の成熟が必要だということ

与えられるではなく、与える段階に達していないと、愛することはできない。
アドラー心理学と同じく勇気、強さ、知性が必要である。
まずは、依存心やナルシシズム、他人を利用したり何でも溜め込もうとする弱さを克服するところから始まり、
その上で、強くあろうと生涯成長を志すことだ。

結婚生活とは気を遣いながら送るものではない

夫婦とは気遣いながらやっていくものという常識があるが、
そんな浅い関係性は脆くても仕方がないことだろう。
フロムはこうした関係を、生涯他人のままであり、中心と中心の関係にはならない、と表現している。
成熟した人間同士ならば、ありのままの自分として向き合え、それを認めあうことができる。

自分の子供に対する愛が一番易く、他人になるほど難しい

子育ての大変さという意味ではない。
愛するという意志を持てるかどうか。
自分の子供であれば大抵のことは許せる。
反抗期でどんなに嫌われようと、自分は子供を裏切らないことが愛だ。
だが、親、兄弟、恋人、友人と、他人になるにつれ、それは難しくなっていく。

資本主義と愛

資本主義とは、基本的には個人の利益を追求する社会である。
この社会にあって、利他を必要とする愛に気づくのは難しい。

愛することの難しさ

多くの人が弱さを持っている。

  • 自分に何をしてくれるかで相手を見る人
  • 見捨てられることの恐怖ゆえに他者に害をなす人
  • 他者に認められなくては自己の存在価値を認めることができない人
  • プライドが傷つけられた時にその補填として未熟な行動をとる人

そして、他人は自分のために存在すると信じ、
傷つけることも厭わないような、元々愛することができない人もいる。

実は、結婚するくらいの年齢でこれらの弱さを克服し、与える段階に達している人は少ない。
だがそれで幸せな結婚ができないというわけではもちろんなく、
自分の弱さを理解できる知性がありさえすれば、
その人はその後の人生で弱さを克服していくだろうと思う。

愛することができる世界にしたい

はてブでも結婚のメリット・デメリットが語られたり、
良くあるための具体的な対策案をよく見るが、
もっと俯瞰的に理想の世界を考えてみたい。

今の世の中は、
他者との比較や、メディアなどからの表面的な恋愛の常識の形成、
そういったものゆえに本当の愛が見えづらくなっている。
自分で考え、答えを見つけていける者だけが、理解し、
愛についての経験、成長を経た者だけが、行うことができる。

そういった人間を増やすにはやはり教育だ。
まずは流行からで良い。
本当の愛についての価値が知れ渡り、
親になる人間達がそれを正しいものだと理解すれば、
その子供にはそれを教え、世代が変わるごとに愛することができる人間は増えるだろう。

長い時間がかかることだが、そうせざるを得ないこともわかっている。
大学の授業でこの本を読んだ人に聞くと、
当時は難しくてわからなかったということだった。
旧訳の方だったのだろうが、当人の愛の経験が乏しいと理解すらできないということだ。
本を読んで、その価値を理解したとしても、行動できるまでに数年はかかるだろう。

この部分にビビッときた

フロムは、愛を与えることは自分の生命を与えることだと述べています。ここで言っている生命とは「命」のことではなく、「自分の中に息づいているもの」のことです。相手に対して、「自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分の中に息づいているもののあらゆる表現を与える」ことが愛だとフロムは言うのです。そして、「与えることによって、かならず他人の中に何かが生まれ、その生まれたものは自分に跳ね返ってくる。ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受け取ることになるのです。

自分はまさにこういう意識で他者に接してきて、理由はわからないがすごく重要だと思っていたことだった。
これが確かに愛なのだとわかるけど、他の人の例も聞いてみたい。

本は新訳の方で

本は下にリンクした新訳のものと、
NHKの「100分de名著」の二冊とも読むことをオススメする。