かじまるの人生日記

いつも幸福な人間が、その人格を考察したり仲間を探すためのブログ

アドラー心理学の一般的な捉えられ方、そしてその実践者の実際

最近タイトルのことについてわかったことがあったので書きます。

アドラー心理学のコミュニティに参加した

アドラー心理学のコミュニティを探していたので、
都内でやっているアドラー心理学の互助会みたいなものに参加しました。

その自己紹介では、参加の目的として以前のアドラー記事で書いたように、
アドラー心理学の実践者と話してみたい
・何か課題があり、それをアドラー心理学で解決しようとしている人と話してみたい
と伝えました。

そして、主催者と初参加の僕ら3人が対面してお悩み相談の形になり、
その時の説明で、日本におけるアドラー心理学のコミュニティは、
まず「日本アドラー心理学会」があり、
そこから岸見一郎さんや平本あきおさん、ヒューマン・ギルドを作った岩井さんが分かれていったらしいです。
自分の知らないコミュニティがあるかと期待してたんですが、知っているものしかありませんでした。

岸見一郎さんと平本あきおさんのカウンセリング、コーチングは実際に見たことがあり、
Facebookでもフォローして見ているけど、この二人は本物だと確信できるし、カウンセリングの経験値もすごいので、憧れの存在です。
ここの主催者は、そんな二人のディスりから始まってしまいましたが(笑)

他に二人の相談者がおり、まさにアドラー心理学を用いて解決することが適切だと感じるような相談内容だったけれど、
この主催者のカウンセリング?アドバイスがひどくて、
目的論への意識からか「それはこういうことが目的ではないか?」と目的を探すことに終始し、
これからどうするか、という段階に入ることはありませんでした。

ちょうど岸見さんがその大事なことを言っていたので引用します。

https://cybozushiki.cybozu.co.jp/articles/m001277.html
アドラー心理学のカウンセラーは、相談に来た人に「どうしたいんですか?」「どうなりたいんですか?」とたずねます。
「今、こういうことができない」と言ってきた時に、その原因を分析してもほとんど意味がない。

アドラー心理学の理論をうわべでしか理解していない人がこうやってカウンセリングをしてみることって
もしかしたら多いんじゃないかと思いました。
まずは自分にそれができないこと、間違っているかもしれないことを自覚して、カウンセリングの形ではなく、お互いから学び合いをするべきだと思います。


あと、相談者の発言で、
「嫌われる勇気」を読んで衝撃を受けたけど、これからどうすればいいのか具体的な方法が書いてなくて残念、ということでした。
「嫌われる勇気」は具体的な行動レベルのことは書いてなかったかもしれないけど、
アドラー心理学は何かを知れば・何かを行えば実践できるものではなくて、
常識や思い込みや捉え方などを、数年から十数年かけて修正していくものです。
実践することが難しいものだと知ることなしには、安易な解決法にばかり目がいってしまうのだろうと思います。

そこで、認知行動療法はその認知の改善を促進するものだと考えているので、それについては勧めておきました。
あとは主催者の立場を潰してもいけないので、ずっと黙ってました。

このコミュニティへの参加で、
アドラー心理学は、こういう風に捉えられることがあるのだな、ということに気づけました。

もちろん、会社の同僚や友達にも聞いたりしているけど、
ほとんどの方は興味がないか知らない、知っていてもタイトルだけで勘違いしている人が多く、
未だに本が売れ続け、注目されている心理学であるにも関わらず、意外だと思うことがよくあります。

アドラー心理学の実践者を見つけた

僕は直接話せなかったので、聞いた話になります。

アドラー心理学が実践できていると感じる人が2人いました。
両者、20代前半の新社会人でした。

何をもってそう判断したか、そのポイントは、
・自己をよく認識している
・人からどう思われるかを気にしてない(嫌われることを厭わない)

その結果、どういう特徴を持っていたか
・他人からはよく変わっている、と言われる
・他人にはあまり興味がない感じだが、近しい人は大事にしている
・自分が幸せかどうかや心理学には興味なし
・見た目や雰囲気は地味
・社会に対する批判、周りに対する愚痴を言わない
・社会人に成り立てで、仕事をしたくないというのはもちろんなく、でも成功してやろうというガツガツさも全くない

これといった特別性はないように感じられるけど、
僕がアドラー心理学を実践している人の重要な要素だと思うことはまさにこういうことです。

どう思われるかを気にしないというのは、鈍感とか空気を読まず勝手を行うということではなく、何を思われようとそれに恐怖しないということ。これは承認欲求からの脱却や、自己受容につながります。
周りに同調しないので、「変わっている」と言われることになるし、独りでいる勇気があるので、ことさらに多くの人と交友関係を持とうとも思わない。
人間として強いので不幸に陥ることがなく、翻ってそれは幸福であるかどうかへの興味もない、ということになります。
批判や愚痴を言わないのは、自己責任論が身についているということ。これも強さがなければ不可能です。

僕の場合だと、
若い頃はほぼ上記の通りで、ノリは軽かったので表面だけ見ると全く違う人間に見えたはず。
そして、大人になって大きな課題にぶつかり、心理学、人間の幸福、自分と他の人との違いなどについて興味を持ち始めたことで、現在の僕とはさらに違っていると感じます。
ただ大事なのは判断ポイントの部分で、そこは変わりません。

実践するためにはこの心理学の知識はそれほど必要なことではないと思います。
この心理学は特別なものではなく、精神的に健康に生きていれば自ずとそうなっていくものだと考えているからです。
ただ、他人への接し方という点においては、アドラー心理学の知識がないと、弱い人間がいるということに気づけず、適切な接し方が難しいのでは、とも感じています。


そして一人の方には大事なことが聞けました。
どう育てられたかということです。

自分がやろうとすることを親に制限されることはなく、それについてのアドバイスだけされてきた、と。
過干渉や過保護とは真逆の、岸見さんが書いていたアドラー心理学流の子育てだと思ったし、
本当にこういう強い人間に育つのかという実例ができて、有意義な情報でした。
もちろん、この子育て情報だけでは判断できないので、本当は親御さんに直接話をしたいところですが。

親御さんがどうしてそのような子育てができたかについても聞けてません。
僕が親なら、色んな子育て論やアドラー心理学を知ることなしに、同じようにできたかどうかはわかりません。
どうすればそんな親になれるのか。その普遍的な方法について知りたいのです。

最後に

この二つの経験から、アドラー心理学の理解と実践の難しさ、
そして実践するのなら、大きな勇気と年月が必要で、
できることなら幼少期からの適切な教育が必要だと改めて感じました。
アドラー心理学がいかに間違って捉えられるのかも。

そして、
このブログの大きな目的であった、アドラー心理学の実践者と話したい、ということが難しくなってきました。
実践者であろう人は幸福や心理学がメインのブログは興味がなく、自分がアドラー心理学の実践者だという認識すら持たないだろうということがわかったので。
実践者であり、そのことについての自覚をしている人を探す必要があるんですね。
コミュニティでも、このブログからでも期待が薄いとなると、他にどうしようか模索中です。