かじまるの人生日記

いつも幸福な人間が、その人格を考察したり仲間を探すためのブログ

アドラー心理学の実践者が「嫌われる勇気」の本について書くこと

この本を読んだ時、これまでの人生で、試行錯誤しながら課題を乗り越え得たものが、
そのままこの心理学のエッセンスになっていると感じた。

この本についてたくさんの書評があるが、
この心理学を既に実践している者からの評価はあまりないようなので、
自分の経験を踏まえて書くことは有意義な情報になるかと思う。

前提として自分が育った環境について

家族からは過度な干渉はなく充分な愛情を受けて育ち、
学生時代から社会人になっても、基本的に周りに存在を認められ尊重を受けてきた。
そのためか、誰かに・何かに依存することはなく、嫌われることすら厭わず、
無理にアイデンティティを求めず、お金や地位にも興味なく、
自分だけ良くあればいいではなく、みんなが幸せであるようにと考える人間になっていた。

発達心理学では人生の時期によって満たすべき課題、欲求が定義されるが、
その欲求が常に充分に満たされてきたのだと認識している。

アドラー心理学のエッセンスと自分の経験

嫌われること

実はこの本に出会うちょうど一年前、当時の交友関係に関してある葛藤があり、
そのときに『嫌われてもいいんだ』と明確な意識があったことを覚えている。

嫌われた時にはもちろん普通にショックを受ける。
だが、それを乗り越えられる自信や強さがかなり大きいと思われ、
嫌われるかもしれないというリスクが行動の制限になることはない。

シニカルに「自分は嫌われてもいい」と言う人がいるが、
諦めだったり、潜在的に承認されることを渇望している場合は、正反対のものなので注意が必要。

自由

自由とは、ありのままの自分で、縛られることなく生きること。

(エピソード)
最初に自由を実感したのは四国お遍路をしていたとき。
かなり厳しい体験だったので、常識や体裁などを気にする余裕がなく、山や田舎道で立ちションをしていたら
急に「これが自由か」と解き放たれたような明確な意識を得た。
アホみたいな体験だけど、真面目な話。
もちろん、アドラーの言う対人関係における自由が主な経験となるが、本質的には同じ。

こういう経験をいくつもしていると、カントの自由も、アドラーの自由も、心から理解できると思う。
常識や文化に沿わない人は嫌われる。バカにされる。こういう恐怖に打ち勝てないと、
いかに常識に縛られているかも気づけず、自分の本当の生き方に気づくこともできない。

社会的に成功して、裕福で、自由にやりたいことができるという幸せがある。
それは金銭的、社会的に自由であるという意味で、ここでの自由とは全く違う。
結局は、人にどう見られるかの意識から解放されているか、
自分が本当に何をして生きていきたいかに気づき、行っているかどうかが大事だ。

自己受容

自分の能力の低さ、コンプレックスも含めて、ありのままを受け入れること。

(エピソード)
仕事で、認められたいではなく、心から貢献したいと思ってやっていたが、自分の能力の低さゆえにうまくいかない時期が続いた。
体を壊すくらいに既に努力はしていたし、原因は、会社と自分の能力のミスマッチとしか考えられなかったのでどうしようもなかった。
そんなときにこの本に出会って『課題の分離』を知ったことで、
『自分は出来る限りの努力をしていればそれでいい。あとはクビにするなど会社側が決めること、会社側の課題だ』
と思うことができた。
そしてそこで、自分のマイナス面もすべてを受け入れた感覚があり、それが自己受容なのだと気づいた。

共同体感覚

他者を仲間とみなし競争ではなく協調する、これを居場所とし、幸福を得ることができる感覚。

(エピソード)
育った環境ゆえ、他者は良いものだという認識があり、
陰口や批判などの裏切りがあっても、まずはそうするに至った理由を汲み取ろうとするし、
それに耐えるうるという自信もあるので、対人関係に入っていくことに恐怖することがない。
そしてすぐに相手に尊敬や信頼を持つことができる。(信頼と信用とは別。信用して騙されるのは知性の問題である)
競争相手ではなく仲間だと思えるから、素直に祝福できるし、幸福にしたいと思う。
そういう感覚と行動によって、日常的に幸福を得ることができている。

ついでに性善説性悪説について。
人間は元々は善くありたいと思うものなので、性善説が正しいと考える。
ただ、生きていく中で弱い自分を守るために、人に害をなさざるを得ないというだけだ。
サイコパスは例外とする。

今ここを生きる

何者かになる必要はない。ただ今を一生懸命生きていれば良い。

(エピソード)
若いときは、その時の自分に満足できず、理想の自分になれないことに焦りや、ネガティブな気持ちがあった。
承認欲求が小さいことと、日々努力できるようになったこと、一生懸命に生きて後悔なく充実した毎日を送れるようになったことで、自分のありのままで満足できるようになった。
死生観にも影響していて、死ぬ時に多くの人に悲しんでもらいたいとか、立派な墓や世の中に爪痕を残したいというような、自分がいなくなった未来のことなど全く関心がない。

誤解されやすい/そのまま受け取ってない箇所

「嫌われる勇気」というタイトル

この心理学の全体を表しておらず物足りなさを感じるが、一番の本質であると思う。
各エッセンスを実践するに根幹となる必要条件が、嫌われる勇気だということ。
そして、これが一番難しいということ。

承認欲求の否定

マズロー欲求段階説にある通り、人間である限り、自己実現を達成したとしても、少なからず承認欲求はあるはず。
ない人がいたらかなり興味があるのでぜひ話してみたい。
この心理学で言わんとしていることは、『承認欲求を動機とした行動』を否定するということで、
その欲求を持つこと自体を否定しているわけではないと解釈している。
自分の場合だと、承認欲求を動機として何かを決定したり行動することは一切ないが、
例えば何か達成したときなど、褒められれば素直に喜んでいる。これは承認欲求ゆえのものだと思っている。

トラウマの否定

岸見さんの他の本によると、アドラーは軍医をしていたので、PTSDレベルのトラウマの存在を知らなかったはずはないとあった。
ではこの意味とは、トラウマを『行動できないことの理由にすること』を否定しているということらしい。
脳でいうと、認知を行うことと、トラウマ反応は明らかに違うものである。
認知について言っているのなら納得できる。

褒めてはいけない

これは納得できていない。
褒められたとして、そこに相手との上下関係を意識するだろうか?
自分の場合は素直に喜ぶだけなので理解できず。

「嫌われる勇気」という本

出版から3年経った今でも、大型書店のビジネスコーナーではランキングに入っているし、Amazonのレビューも類を見ないほど高いものになっているので嬉しい限りである。

これまでも「7つの習慣」など人生に影響しそうな本は読むようにしてきた。
でも「嫌われる勇気」という本は、自己啓発や、ライフハックという枠を超え、バイブルに出会ったくらいの衝撃を受けた。
他のアドラー関係の本を数冊読んでみたが、やはり「嫌われる勇気」がダントツでわかりやすいし深い。
あとに出た「幸せになる勇気」もこの本ほどではないが、とても大事な本。

最後に

この本を実践するということは、現状では世間とは大きく乖離するということだ。それほど常識とは異なっている。
だけど、人間としての普遍的な成長の要素でもあると考えている。

自分も、最初から求めてこうなったわけではなく、苦しみや葛藤を乗り越え学んだ後に、自然に変化したものだ。
現在では、何が起こればこの安定して高い幸福感が阻害されるのか、ということに興味すらある。

正しくはない宗教や自己啓発セミナーなどは、
ただ祈れば、これを買えば、これを行えばと、そういう手軽な手段で幸福を得れると説く。
だが、弱さや未熟さを克服せずに得れるものは刹那的、依存的な幸福でしかない。自分の内面の変化すら起こらない。

実践するのが本当に難しい心理学だと思う。
実践できずとも、これを知り、正しい方向に向かうだけで有意義な人生になるはずだ。
確実に成長はする。
だが最初は常識の枠を外れるというだけでも相当に大変なことだろう。


嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

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